P.I.チャイコフスキー 交響曲第5番 ホ短調

指揮アルトゥール・ロジンスキー
演奏ロイヤル・フィルハーモニック管弦楽団
録音1954年10月
カップリングP.I.チャイコフスキー 交響曲第6番 他
発売ユニバーサルミュージック(Westminster)
CD番号UCCW-1046/7(471 272-2)


このCDを聴いた感想です。


 ロジンスキーとメンゲルベルク。一見、芸風が正反対に見える二人ですが、この演奏では意外な共通点があります。
 それはカットです。
 メンゲルベルクは、終楽章で、中間部一ヶ所と終わりの方一ヶ所の、計二ヶ所ほどカットしていますが、中間部の方のカットをロジンスキーもやっているのです。
 このカットは、始まる小節も終る小節も全く同じ(第210小節から第315小節)で、他のカットしている演奏とは異なり数小節の違いもありません。
 つまり、以前感想を書いたバルビローリ(ニューヨーク・フィル響)の演奏と同じカットというわけです。
 また、メンゲルベルクがシンバルを叩かせている直前(第501小節)の、トランペットの4つの音を楽譜を変えてメロディをなぞらせるかという部分では、3人ともメロディにせず、楽譜どおり同じ音を4つ吹かせています。
 メンゲルベルクとバルビローリとロジンスキーというあまり接点の無さそうな3人ですが、なぜ同じカットをしているのでしょうか?
 実は、この3人には共通の経歴があります。
 一時期、ニューヨーク・フィル(響)の常任指揮者(ロジンスキーからは音楽監督)をしていたという点です。(順番としては、メンゲルベルク→一人おいて→バルビローリ→ロジンスキー)
 ここからは、わたしの勝手な推測なのですが、メンゲルベルクがニューヨーク・フィルでやっていた時代に譜面にカットの指示を入れ、後に常任指揮者になったバルビローリとロジンスキーが、その指示を参考にしたのではないかと思います。
 特にロジンスキーは、ショスタコーヴィチの交響曲第5番でもカットをしているぐらいですから、カットする事にもそれほど抵抗は無かったのでしょう。このロイヤル・フィルとの演奏の約9年前の1945年にニューヨーク・フィルとのライブ録音でも同じカットをしています。
 ちなみに、この3人以外のニューヨーク・フィルの歴代常任指揮者の演奏は聴いた事がないのですが、メンゲルベルクとバルビローリの間で常任指揮者を務めたトスカニーニは、本人の性格から考えると、おそらくメンゲルベルクの習慣をそのまま踏襲するのは嫌ったと思います。また、ロジンスキーの次のミトロプーロスはどういう演奏をしたのかちょっと想像つきませんが、そのまた次のバーンスタイン以降は、もはやカットする習慣自体が無くなってしまいました。

 さて、今度は演奏の内容についてですが、常に全力投球しているように力が目いっぱい入っています。
 あまりにも力が入っているためガチガチに硬く、余裕が無くなり、まるで機械油が切れかかった機械を動かしているみたいに、流れも滑らかではなく多少ギクシャクしています。
 メロディも、力が入っているため緊張感は高いのですが、あまり表情は豊かではなく、特にピアノ(p)の部分では、動きが少ない分、緊張感と硬さばかりが表に出てしまい、どうしても単調に聞こえて、いま一つ面白みがありません。
 一方、これがフォルテ(f)になると、急に音楽が生き生きとしてきます。
 一度に多くの動きが出てきて、それらの動きが全て全力で演奏されているため、ちょっとした動きでも力強く存在感があります。
 普段は埋もれてしまうような低音の動きでも、動きの頂点では、主役さながらに舞台の中央に飛び出してきます。
 そもそも音の大きさからして、ピアノ(p)は普通に弱い音なのに、フォルテ(f)だと、フォルテどころかほとんどフォルティッシモ(ff)ぐらいに全開の音量で音を鳴らしまくっています。
 では、フォルテ(f)で音量全開なら、楽譜上でフォルティシモ(ff)やフォルティッシシモ(fff)やそれ以上(チャイコフスキーではよくあります)はどうするのか?
 音量は既に限界まで出しているで、それ以上大きくはできません。
 となると、方法はただ一つ。fの数が増える分だけ、ますます力を入れて演奏するのです。
 フォルティッシシモ(fff)ともなると、音量もさることながら、腕も折れよとばかりに力を入れている様子はただ事ではなく、思わず『この部分を乗り切ったら、みんな気が抜けて倒れてしまうんじゃないだろう』と心配してしまいそうになります。
 金管に至っては、フォルテとフォルティッシモ以上では音色まで変わり、フォルティッシモ以上では、力を入れるあまり半分音が割れかけていますが、その硬い突き刺すような音色と力強さは全てをなぎ倒していくようで、ほとんど爽快感すら感じます。(2003/12/13)