P.ヒンデミット ヴァイオリン協奏曲

指揮ウィレム・メンゲルベルク
独奏ヴァイオリン:フェルディナンド・ヘルマン
演奏アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
録音1940年3月14日
発売及び
CD番号
ARCHIVE DOCUMENTS(ADCD.110)


このCDを聴いた感想です。


 ヒンデミットといえば、有名な「ヒンデミット事件」の原因となった交響曲「画家マティス」(あるいはもっと後に初演された同名の歌劇)や、俗に「ウェーバー・ヴァリエーション」と呼ばれる「ウェーバーの主題による交響的変容」や、一連の吹奏楽作品辺りが有名だと思うのですが、メンゲルベルクが唯一残したヒンデミットの録音は、そのどれでもなく、今一つマイナーなヴァイオリン協奏曲です。
 そもそもこの曲、メンゲルベルク以外の録音は、ごく僅かしか見たことがありません。
 もっとも、その数少ない録音の一つは、ソロがダヴィッド・オイストラフで、伴奏の指揮が作曲者本人だったりして、妙に豪華なものもあります。
 メンゲルベルクの録音の方も、メンバーの豪華さでは負けているかもしれませんが、歴史的価値という点では、作曲者本人の演奏に決して引けを取りません。
 なにせ、こちらは初演の実況録音なのですから。
 そもそも、このヴァイオリン協奏曲の作曲を依頼したのがメンゲルベルクだそうです。
 しかし、改めて考えてみると、この演奏が行われた、つまりは初演が行われた時期もなかなか微妙なタイミングです。
 ヒンデミットは、1930年代後半にはドイツを離れていることからもわかるように、ナチス政権下では3M(メンデルスゾーン、マイアベーア、マーラー)並に、演奏は困難だったはずです。
 ではアムステルダムはどうかといえば、オランダが独立を保っている間は、おそらく特に支障は無く演奏できたでしょう。
 しかし、そのオランダが降伏してナチスの支配下に組み込まれるのは、この演奏のわずか2ヶ月後のことです。
 ということは、もし曲の完成がもう少し遅れていたら、もしかしたらメンゲルベルクによる初演は無かったのかもしれません。

 さて、曲の方ですが、構成としては、協奏曲の標準タイプである3楽章ものです。
 しかも、その三つの楽章も『急−緩−急』というごく普通のもので、全曲で約30分の演奏時間のうち、各楽章がそれぞれ10分ずつと、バランスよく割り振られています(もっとも、均等割り自体は、協奏曲の標準とは言えないでしょうが)。
 この三つの楽章の中で、最も印象に残ったのは第3楽章です。
 とにかく明るく脳天気なのです。
 実は、このイメージは、あながち曲調だけによるものではなく、演奏の影響も大きかったのですが、聴いていて、なんとなく有名なメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲の第3楽章が思い浮かびました。
 ただ、メンデルスゾーンとは一つ大きな違いがあります。
 この曲に較べて、メンデルスゾーンの方が健康的な印象を受けるという点です。
 メンデルスゾーンの場合、いくら脳天気でも、地に足がついた安定感があり、本当に何の悩みも無く心から楽しんでいるような喜びがあります。
 しかし、ヒンデミットの場合は、脳天気な中に、どこか無理をしているような陰が感じられます。
 まるで強制的に明るくさせられて空騒ぎをしているかのようです。
 もしくは、精神のネジが一本とんでしまって自分が何をしているのか分からないとか、あるいは身を守るためにそういうフリをしているとか、とにかく狂騒的で、地に足がついていません。
 どこか狂気の色が垣間見えます。

 それに較べると、第1・2楽章は、まだ落ち着いています。
 第1楽章は、暗く激しいのですが、部分部分で分けてみると、音楽はそれぞれ一つの雰囲気としてまとまっていて、いくら不協和音が連続してもあまり破綻は感じられません。
 メロディーが暗く沈んだものである点も、雰囲気を落ち着かせるのに一役買っているのでしょう。
 一方、第2楽章は、さらに落ち着いています。
 冒頭の部分なんて、まるで賛美歌のように厳かですし、一部後半で盛り上がるものの、ほぼ楽章を通じて穏やかな雰囲気に貫かれています。
 メロディーもしみじみと浸るような情感溢れるもので、あまり耳に馴染みやすくはないのですが、夜のように沈んだ雰囲気があります。
 ただ、ここで一つだけ気になったのが、ヘルマンのソロです。
 ヘルマンの意志なのかメンゲルベルクの意志なのかはわかりませんが、この第2楽章のソロを歌わせる時に、ポルタメント気味に音を移っていくのが、どうも曲の雰囲気にあまり合っていないような気がします。
 楽章の雰囲気としては、深い森のように自然だけであまり人間の影が無いのに、ヘルマンのソロからは人間臭さがプンプンと匂い、曲から浮いています。
 オーケストラも含めた全体としては、初演ということもあるのでしょうが、あまり響きを綺麗に整えたりはせず、不協和音は不協和音として堂々と演奏するという、割と現代音楽の演奏に近いアプローチです。
 さらに、その音楽は内側ではなく効果を重視して外に向けられています。
 まあ、早い話が『派手な』演奏というわけですね。(2004/3/13)


サイトのTopへ戻る