黛敏郎 涅槃交響曲

指揮外山雄三
演奏NHK交響楽団
日本プロ合唱団連合
録音1978年2月4日
カップリング外山雄三 曼荼羅交響曲
発売日本フォノグラム(PHILIPS)
CD番号30LD-1016


このCDを聴いた感想です。


 当時の日本の作曲家に大きく影響を与えたとして語られることの多い涅槃交響曲ですが、初めて聴いた時には、正直言って何が何だかさっぱりわかりませんでした。
 それまで馴染んでいた、良くも悪くも論理的に進んでいく西欧流の音楽とはコンセプトから異なる東洋流の感覚的な音楽というのは分かっていたものの、実際耳にしてみるとあまりにも漠然としていて取っ掛かりがありません。
 なにやらモワモワっとした雰囲気中を、いろいろな楽器が次々と登場してはまるで効果音のように短い断片をちょこちょこっと演奏しては去っていくという繰り返しで、ほとんどメロディーらしいメロディーもありません。
 なんとか形が見えてきたのは、第2楽章の『首楞厳神咒(しゅうれんねんじんしゅう)』に入ってからで、ここからは男声独唱と男声合唱による神咒(なんでも声明(しょうみょう)の一種だそうです)が登場し、歌詞(……といってもサンスクリット語なので意味は全くわかりませんが)と一応メロディーっぽいものが出てくるため、まだついていけました。
 この第2楽章や第4楽章(『魔訶梵(まかぼん)』)は、いくら歌詞が分からないとはいえ独唱や合唱が出てきますし、ストラヴィンスキーの『春の祭典』の『春のきざし』に似た、同じ音をザッザッと刻んでいきその合間に強いアクセントが入るといった激しい動きがあるので、形がはっきりと見えますし、第5楽章の『カンパノロジーIII』は、鐘が一斉に乱れ打ちされるため、その迫力はさすがに印象に残ります。
 しかし、それ以外の部分はというと……どうも、とりとめがなくよくわからなかったのです。
 そもそも、CDの解説にも「分析的に聴かずに感覚によって直観して聴くべき」などと書かれているぐらいで、カチッとした形を求めて聴くものではないのでしょう。

 初めのうちはそういうあまり良くない印象を抱いていたこの曲ですが、何度か聴いているうちに、なんとなく感覚がつかめてきました。まあ、せいぜいつかめてきたような気がする程度ですが。
 要は、この曲は『竹』のようなものではないかと。
 竹といっても、松竹梅のランクの竹ではありません。あの植物の竹を枝がついたままそっくり横にしたものが曲のおおまかな流れです。
 柱の稈(幹)にあたるのが、鐘を模したボワーンという鈍い音です。これは、曲の最初から最後までほぼ一貫して登場します。楽器の組み合わせはいろいろ変わりますが、音の高さはほぼ一定で(いや打楽器を模しているのだから音程はほぼ無いというべきかも)、間隔の長短はあるものの常に同じような調子で繰り返されるところが、竹の同じ太さで伸びた『稈』とそれに多少の長短あってもほぼ一定の間隔で入る『節』と同じなのです。
 一方、断片的に登場する効果音のような様々な音が稈から突き出た枝にあたります。
 バランスとしては、断片的な効果音の方がはるかに強く、8:2ぐらいの割合でより目立って聴こえるのですが、そちらは目立っていてもそれぞれが独立してあまり前後のつながりがありません。前後のつながりは残り2割にあたる地味なボワーンとした音の繰り返しが担っているではないかと。だからこちらが稈というわけですね。まあ竹というより笹に近いかもしれません。
 これに気がつくと、初めはとりとめの無いと思ったこの曲が、意外と芯には一貫したものがあるとわかってきました。
 変化が激しいためどうしても意識が向きがちな、パラパラと出てくる断片的な動きや独特の雰囲気をもった合唱に較べ、ボワーンとした鐘の動きにはほとんど変化が無く一定しています。
 しかし、そこがしっかりとしているため、周りがほとんど好き勝手と思えるほどバラバラに動こうとも芯に結びつき、そこから前後へのつながりも出てくるのです。
 この、芯の一貫した不動の流れ、考えてみればこれが『悟り』というものでしょうか。まあ、そんな簡単に悟れるようなら修行なんて必要無いわけで、さすがに虫が良すぎますけど。
 それはさておき、そう意識して改めて聴き直してみると、パッと見の特異さの割に、実は案外まともな曲でした。(2005/8/20)


サイトのTopへ戻る