團伊玖磨 歌劇「夕鶴」

指揮團伊玖磨
出演つう:三宅春恵
与ひょう:木下保
惣ど:秋元雅一朗
運ず:立川澄人
子どもたち:シンギング・エンジェルス
演奏東京フィルハーモニー交響楽団
録音1959年
発売東芝EMI
CD番号TOCE-9427・28


このCDを聴いた感想です。


 追悼 團伊玖磨

 今回は、昨日(2001年5月17日)、團伊玖磨氏が急逝されたのに伴い、当初の予定を急遽変更して、團伊玖磨氏作曲の「夕鶴」をお送りします。

 歌劇「夕鶴」は、皆さんもよくご存知のように、民話「鶴の恩返し」を木下順ニが戯曲化したものを、團伊玖磨がさらに歌劇にしたものです。
 改めて書くほどではないのかもしれませんが、念のため粗筋を以下に記しておきます。


 いつとはわからない昔々のこと……
 雪深い農村に与ひょうという少し愚かな男が住んでいた。
 その与ひょうのところに、いつの間にか美しい女房がやって来ていた。
 このつうという名の女房は、世にも珍しい「鶴の千羽織」という布を織るのだった。
 この「鶴の千羽織」が都で高く売れることに目を付けたのが隣の村の惣どと運ずだった。
 二人は与ひょうを焚き付けて、もう布は織らないと言っていたつうにもっと布を織らせるよう画策する。
 二人の甘言に乗せられた与ひょうは、金に目がくらんで、つうに布を織らせるために別れをもちらつかせる。
 つうは、与ひょうのために最後にもう一枚だけ織ることを決心する。
 機を織るために機屋に入るつう。
 実は、つうと与ひょうは、つうが機を織っている間は決して機屋の中を覗かないという約束を交わしていた。
 与ひょうの制止を振り切って機屋の中を覗いた惣どと運ずに、中にはつうではなく鶴がいると聞かされた与ひょうは、つうがいないと聞いて心配になり、約束したにもかかわらずついに中を覗いてしまう。
 与ひょうに鶴である姿を見られたつうは、もはや人間界にいることはできなかった。
 最後に織り上げた二枚の布を与ひょうに託し、つうは鶴の姿になって空へと消えて行くのだった……


 この劇は民話劇だけあって、日本らしさと素朴さが重視されています。
 たしかに演奏するのは西洋的な編成のオーケストラですが、メロディーは日本的な陽旋法(レ・ミ・ソ・ラ・ドの音がメインである5音音階)が多く使われ、フルートは横笛、オーボエは芦笛、ハープは琴を模した使われ方をしています。
 また、アリアが中心となる西洋のオペラと異なり、つうに見られるいくつかのアリアを除けば、ほとんどが叙唱に近い歌い方になっています。
 さらに、聞いていてすぐに分かるのが、二重唱のような、複数の役による掛け合いや和声を聞かせる曲がほとんど無いことです。
 基本的に、一人が歌っている間は他の人が言葉を発することは無く、ごくごく一部に同時に同じメロディーを歌い和音を作っているぐらいのものです。
 しかしながら、この、一度に一人しか歌わせないという構成が、劇全体の素朴な雰囲気を出すのに大いに効果を発揮しています。
 そのため、さきほど書いた、ごく一部にある二人が同時に歌って和音を作るところなどは、かえって浮いて聞こえるくらいです。
 ……もちろん、特に強調したい部分なので、わざと浮き上がらせたという面は当然あるはずです。

 登場人物の中で、つうだけが人間ではありません。
 わたしも解説を読むまで気が付かなかったのですが、その特異性を際立たせるために、つうと他の人物とで、セリフに大きく違いがあります。
 実は、登場人物の中で、つうだけが方言で話していないのです。
 他の人物が全員方言で話しているため(特定の地方の方言ではありません。各地の方言が自然にブレンドされています)、多かれ少なかれ人間臭さがにじみ出ているのですが、つうだけは方言を使わないことで、どこか他の人とは違う土臭さを感じさせないキャラクターになっています。


 さて、子どもたちを除けば主要な登場人物は四人ですが、その中でつうと与ひょうがよりメインの役柄であると言えるでしょう。
 物欲に惹かれていった与ひょうが、次第につうの心から離れて行き、そのために最後には大事なものを失ってしまうという本筋から見て、この二人が主役というのは、まず異論が無いところだと思います。
 一方、純粋な心のつうと対照的に物欲の塊として描かれているのが隣の村の惣どと運ずです。
 両者とも、与ひょうを物欲側に引っ張る存在として、同じような役柄に見られることが多い二人ですが、わたしはこの二人の違いが決して小さくないことにあるとき気づきました。

 運ずと惣どとを比べると、運ずの方が惣どと比べ、まだ素朴さを残している……つまり、より与ひょうに近い側の人物である事がわかります。
 与ひょうがつうからもう一枚織る約束をとりつけるシーンで、つうのことを気の毒がったり、与ひょうを言いくるめる際に罪悪感を感じるところからもそのことが伺えます。
 また、惣どから動物が人間の女房になるという話を聞いて怖がったり、いざ機屋の中で鶴が織っているのを見て、予想していたのにもかかわらず非常に驚くところから、超自然的な存在に畏敬の念を持ってるようにも思えます。
 その一方で金儲けの事も考えているあたり、物欲が無い分むしろ人間離れした印象を受ける与ひょうよりも、よほど人間らしい感じがします。
 いかにも昔の農村にいそうなタイプで、畠を耕しながら、「これが収穫できた日にゃ、町でいいものをいっぺえ買って、たらふく食うべな」とか考えていそうです。

 ところが、これが惣どなると、運ずと同じ物欲を象徴する人物でありながら大きな差があります。
 惣どの言動の根底にある意識は、他の三人とは大きく異なり、ほとんど現代的といっていいほどです。
 早い話、惣どは、徹底したリアリストなのです。
 たしかに惣どと運ずの目的は、同じ金儲けです。
 しかし、惣どの場合は、金儲けという目的をしっかり見据えており、何か状況が変化した場合でも、それが目的に向かう場合に重要かそうでないというのをしっかりと判断できるのです。
 そのため、目的に必要であれば、どんな突飛な事でも受け入れられる合理性がありますし、自分のした行動の結果がどうなるかの洞察力もあります。
 念のために書いておきますが、わたしは『金儲け』という目的自体が良いと言っているわけではありません。
 この場合はたまたま目的が『金儲け』ですが、これが仮に『ボランティア』であっても必要になる能力には変わりは無いということです。
 惣どが、金儲けのためには、予想外の出来事に対して柔軟な許容力があるというのは、運ずが千羽織を本当の鶴が織っていることを知って怖がったり、与ひょうが無理矢理つうに機を織らせるのを見て罪悪感を感じたりする運ずに対して、慰めるセリフにそれが表れています。
 また、惣どが与ひょう対して、つうがどうやって女房になったか確かめるシーンがあります。
 与ひょうの話を聞いて、惣どと運ずは、つうが鶴であることにかなり確信を持ったのですが、その時の惣どと運ずの反応が対照的です。
 運ずは鶴が人の女房になっている事実に驚き、あまりの恐ろしさに震えるのですが、惣どは驚きもしません。
 惣どとっては、千羽織が本物であるとわかったことが重要であり、金儲けという目的にとっては鶴が人の姿になっていること自体は些細なことにすぎません。
 もちろんこれは、目的があくまでも『金儲け』にあるからで、目的が仮に『超自然的現象の解明』であれば、鶴が人の姿になっていることが重要であり、鶴の千羽織が高く売れようが売れまいがそれはどうでもいいことなのです。
 もう一つ、惣どの考え方がよくわかるシーンがあります。
 それは、つうが機屋に入った後、三人が機屋を覗くシーンです。
 惣どは、与ひょうと運ずに強く止められたのにもかかわらず、二人が掴む腕を振り切ってまで、中を覗きます。
 それは、実際に現場を見なければ千羽織の確証が得られなかったためでしょう。
 まあ、ここまではいいのですが、重要なのはこの次です。
 惣どは、鶴が織っているところを、運ずには「鶴だ!」と叫んで中を見るように促したのですが、与ひょうに対しては、中に鶴がいることさえ教えなかったのです。
 つまり、運ずには見せてもかまわないし、共同経営者として本物の千羽織であることを知っておいて欲しかった。
 しかし、与ひょうには中を覗かせたくなかったのです。
 そのために、惣どは与ひょう対して、わざと機屋の中には鶴ではなくつうがいると言ったのです。
 もし、中につうがいないとわかれば、与ひょうはきっと機屋を覗いてしまうであろうことが、惣どにはわかっていたからです。
 だからこそ、「鶴だ!」と叫ぶ運ずを慌てて引っ立てていったのです。
 結果的には失敗しましたが、惣どには、しなければならないこととしてはならないことの区別が、明白についていたのです。

 どうも最後は支離滅裂な文章になってしまいました。
 運ずと惣どは、脇役でありしかも悪役であるため、積極的に語られることが少ないキャラクターですが、少し視点を変えてみると、なかなかおもしろい存在であることがわかり楽しいものです。(2001/5/18)


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