指揮 | コリン・デイヴィス |
演奏 | アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団 |
録音 | 1975年11月 |
カップリング | ドヴォルジャーク 交響曲第8番 |
発売 | PHILIPS |
CD番号 | 420 890-2 |
懺悔 えー、以前、わたしが同じデイヴィスが指揮したハイドンの交響曲第104番の感想を書いた際に、『デイヴィスのドヴォルジャークは退屈』という旨の文章を書きましたが、わたしが間違っていました。 当時は、たしかに退屈に感じたのですが、最近、ようやく第7番の総譜を買ったので、それを見ながら、改めてじっくりと聴いてみて、ようやく魅力に気付く事ができました。 我ながら、相変わらず第一印象が当てにならない事、この上ありません。 まあ、これだけ評価が覆りまくっていると、今は好きでない演奏でも、将来は好きになる可能性も高いわけですから、その点だけが救いですね(笑) それはそれとして、この演奏の魅力ですが、表情が豊かなのにとても自然な点がまず挙げられます。 表情が豊かなのは、もちろんメロディーが歌われているからなのですが、だからといって極端にビブラートをつけたりして濃厚に歌わせているわけではありません。 また、楽譜に手を加えて、音を変えないまでもダイナミクスを変えたり、といったこともほとんどしていません。 楽譜を見ながら聴いていると、特によく分かるのですが、ハッとするような部分があっても、それはデイヴィスが何かを変えているのでは無く、ちゃんと楽譜に書いてあり、デイヴィスは楽譜通りにやっているのです。 まあ、一つにはドヴォルジャークが楽譜に細かく指示を書きこんでいるため、それをそのまま音にするだけでも、かなり歌えるというのもありますが。 例えば第3楽章がいい例です。 短い音で構成された主旋律、流れるような対旋律、両方とも、実に細かくクレッシェンドやデクレッシェンドが書かれています。たしかにこの通り演奏すれば、それだけでちゃんと抑揚のついたメロディーになるでしょう。 ただ、デイヴィスの凄いところは、それにちょっとした色付けがされている点です。 デイヴィスは、楽譜に書かれているクレッシェンドやデクレッシェンドの音量の変化、フォルツァンド等の表情、これら全てを、ほんの少しだけオーバーにやっているのです。 音をクレッシェンドする時には、頂点への盛り上げを平均的にではなく少し後ろを寄せる。ピアノに落とす時は、さらに一段階落とす。フォルツァンドもちょっとだけ硬めに演奏する。そういう、ちょっとした事で、音楽が一気に生き生きとしてくるのです。 だからといって、表情を付けすぎると、今度はオーバー過ぎて、わざとらしくなります。 デイヴィスは、このギリギリのラインを見極めているため、豊かな表情が自然に感じられる音楽になっています。 ![]() デイヴィスは、4拍目の8分音符と16分休符と16分音符との組み合わせの部分で、次の小節に入る直前の16分音符の(楽譜(1)で赤丸で囲んだ音)出を極々僅かに遅らせて後ろに詰めることで、その直前の16分休符をほんの少しだけ長く取っています(楽譜(1)の矢印が指している間)。 16分休符が長くなった事で、この瞬間、音楽が止まったかのようで、非常に高い緊張感が生まれています。 聴いていても、一瞬、呼吸が止まるほどで、その直後に出てくるゆったりとした雰囲気に溢れているチェロの第2主題とは見事な対比になっています。 この演奏のもう一つの魅力は、各楽器の音色です。 特に、ホルンの素晴らしさは印象に残りました。 第2楽章のソロなんかは、音の跳躍の多い、プロでも危なっかしい事も少なくないソロなんですが、全く危なげなく、さらに響きが豊かで柔らかな音色なのです。 一方、第4楽章では、いくらフォルテになっても、音が割れたり潰れたりせず、どんどん縦に伸びていくのには驚かされました。 冒頭から、吼えるように吹いているのに、毅然とした音色で、高い山の如く目の前にそびえ立っています。 圧巻なのが、曲の最後のMolto Maestosoでメロディーが還ってくるところで、ここは楽譜ではホルンはメロディーではないのですが、ここだけはデイヴィスは大幅に変えていて、ホルンとトランペットにも、本来なら木管楽器と第2ヴァイオリンにしかないメロディーを吹かせています。 結果としては、これが非常に効果的でした。 ホルン(+トランペット)が加わる事で響きがぐっと厚くなり、さらに、ホルンの響きはどこまでも上へ上へと上がって行き、そこを貫くようにトランペットが突き抜けてくるのに至っては、迫力もさることながら、さらには崇高さまで感じられたぐらいです。(2003/1/11) |