指揮 | ミヒャエル・ギーレン |
演奏 | 南西ドイツ放送交響楽団 |
録音 | 1999年5月3〜5日 |
発売 | hänssler |
CD番号 | CD 93.031 |
この演奏を聴いて、真っ先に耳につくのは、フォルテでの響きの生々しさです。 例えば、他の多くの演奏では、フォルテの響きは美しく整えられ、壮麗かつ崇高で、人工臭を感じさせないような、自然な響きをしています。 テンポ変化も最小限に抑えられ、演奏者は周囲と一体となってより透明な存在になり、大きな響きの中に全体が融合しています。 それに対して、ギーレンは、そういう演奏を真っ向から否定するように、まるで正反対の響きを作り上げています。 楽器の響きよりも生の音をストレートに聞かせ、その響きは、全体が溶け合って一つの響きとなる美しさからは遠く離れた、有体に言えば、暴力的な荒々しい響きです。 しかし、荒々しいからといってアンサンブルが乱れた粗い響きでは決してなく、音そのものは鳴り切っているため、圧倒するような力強さがあり、生の音が直接出ている分、その響きはむしろ鮮やかです。 そこには、他の演奏から感じられる美しさと、全く異なる美しさがあります。 いわば、他の演奏が、モナ=リザのような調和の取れた自然な美しさとすると、ギーレンの演奏は、モナ=リザが返り血を浴びたまま微笑を浮かべているような凄烈な美しさなのです。 さらにはテンポの変化も常識破りです。 フォルテになればなるほど重厚長大になるかと思いきや、逆にフォルテになるほどテンポがどんどん速くなって行きます。 そのため、フォルテになってもスケールが大きいという印象はほとんど受けず、スピードに乗った小気味良さと、常に先を目指そうとする積極性を強く感じます。 これだけ異色な演奏ですが、その一方でピアノの部分では、フォルテの時が嘘のように、調和のとれた美しさがあります。 テンポはゆったりとして音も清らかで、なにより響きが違います。 生々しさは鳴りを潜め、音色もよく溶け合い、繊細で澄みきった響きです。 ほとんど美女と野獣みたいなもので、このピアノ部分の純粋な美しさが、どうしてあの荒々しいフォルテに結びつくのか不思議なくらいですが、逆に言えば、フォルテの荒々しさがあるから、ピアノ部分の繊細な可憐さが引き立ち、ピアノ部分があるから、フォルテの凄みがより一層増して感じるのかもしれません。 わたし自身は、そういった対比に魅力を感じますし、ブルックナーにあえてこういうフォルテをぶつけてくる点が非常に面白いと思い、実際好きなのですが、なにしろフォルテ部分については、響きにしろテンポにしろ、よく言われている「ブルックナーを演奏するために必要な条件」から考えると、「やってはならない」とされる演奏方法のオンパレードで、おそらく、この演奏を嫌われる方も多いのではないでしょうか。 ちなみにブルックナーだとお約束のように出てくる版ですが、リーフレットには「1876/77年版」とあり、スケルツォにコーダがついている事から考えても「ノヴァーク版第2稿」のようです。 わたしは、自分で演奏したのが「ノヴァーク版第3稿(大抵の演奏がこの版だと思います)」だということもあって、そちらの方で耳が慣れてしまい、第2稿はやはりなんとなく違和感を感じます。 ……といっても、そんなに大きな問題でもないのですが。(2003/7/5) |